8月6日の朝を迎えました。広島に原子爆弾が投下されてから、今年で81年になります。毎年この日は、テレビから流れる平和記念式典の中継に、しばらく手を止めて見入ってしまいます。8時15分の黙祷。あの一分間だけは、日本中のどこかで、同じ祈りが静かに重なっているように感じます。
北海道の千歳で暮らす私にとって、広島は遠い土地です。それでも、この日だけは、遠いはずの出来事が、すぐそばにあるもののように思えてきます。今日は少し、仕事の話から離れて、この日に考えることを書かせてください。
ある一曲のこと
個人的なことになりますが、私にはこの日になると聴きたくなる一曲があります。HUSKING BEE というバンドの「8.6」という曲です。
作詞をされた方は広島の出身だと知りました。だからでしょうか、この曲には、故郷を誇りに思う気持ちと、「あんなことは二度と起きてほしくない」という切実な祈りとが、静かに、けれど確かに込められています。声高に何かを訴えるのではなく、生まれ育った街への愛おしさと、平穏であってほしいという願いが、淡々と歌われている。だからこそ、胸に長く残るのだと思います。
激しく怒りをぶつける曲ではありません。ただ、この街で生まれたことを、育ったことを誇りに思う、という言葉の奥に、失われた無数の日常が横たわっている。そのことに気づくと、毎年、同じ場所で立ち止まってしまいます。
もう一つ、私が好きな一節があります。それでも人々は生き抜き、街はふたたび立ち上がっていった――そう静かに繰り返される場面です。奪われたものの大きさを歌いながら、最後には、それでも前を向いて這い上がっていく街の姿が描かれる。打ちのめされても、また一日一日を積み直していく。その静かな強さに、私はいつも励まされます。そして、それは私たちの仕事にも、どこか通じているように思うのです。倒れても、失っても、また日常を取り戻していく。介護とは、本来そういう営みなのだと思います。
「日常」があることの重さ
なぜ、介護の仕事をしている私が、この日にこんなことを書くのか。自分でも、うまく説明できるわけではありません。
ただ、ひとつだけ思うことがあります。私たちの仕事は、誰かの「当たり前の一日」を支える仕事だということです。朝、目を覚まして、ごはんを食べて、誰かと言葉を交わして、また眠りにつく。そんな、何でもない一日を、少しでも穏やかに過ごしてもらう。介護とは、突き詰めれば、その繰り返しなのだと思っています。
81年前のあの日、その「何でもない一日」が、一瞬にして奪われました。数えきれないほどの、ひとりひとりの暮らしが。名前があり、家族があり、昨日までの続きがあったはずの、たくさんのいのちがあります。
平和な日常があって、はじめて私たちの仕事は成り立ちます。目の前のご利用者と、ゆっくり湯呑みを傾けられること。その当たり前が、決して当たり前ではないのだと、この日はあらためて教えてくれます。
語り継ぐということ
年々、あの日を実際に知る方は少なくなっていきます。私自身、戦争を体験した世代ではありません。けれど、体験していないからこそ、聞いたこと、感じたことを、次へ受け渡していく役目があるのだと思います。
介護の現場には、あの時代を生き抜いてこられた方が、今もいらっしゃいます。ぽつりと漏らされる昔の話に、教科書には載っていない重みを感じることがあります。そうした一言を、ただ流さずに受け止めること。それもまた、いのちに向き合う仕事の、大切な一部なのかもしれません。
静かな一日に
今日は、特別な行動を呼びかけたいわけではありません。ただ、8時15分に、ほんの少し手を止めて、遠い街のことを思う。それだけでも十分なのだと思います。
一杯のお茶を、いつもより丁寧に淹れる。ご利用者の話を、いつもより静かに聴く。そんな小さなことの積み重ねが、平和という大きな言葉と、どこかでつながっている気がします。
穏やかな日常が、これからも続きますように。目の前のいのちを、今日も静かに守れますように。そう願いながら、私も、この8月6日を過ごそうと思います。
木下浩志(NPO法人ちとせの介護医療連携の会 理事長/株式会社MCL 取締役/北海道介護福祉学校 非常勤講師/キャリアコンサルタント)


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