今日の午前中、北海道介護福祉学校で「キャリア形成支援講座」の講義があります。対象は2年生。今年度に卒業し、これから就職活動が本格化していく学生たちです。90分、一回きり。
昨年度までは2回に分けて計3時間かけていた内容を、今年は1回90分に絞りました。削るのは、なかなかつらい作業でした。どれも伝えたいことだったからです。それでも、卒業直後にすぐ使うかどうかという一本の基準で並べ替えていくと、残るものは自然と決まってきました。今日はその話を書きます。
90分を三つに分けた
構成は三部です。
第1部は、自己理解。 キャリアという言葉の語源は「轍(わだち)」だと最初に話します。通ったあとに残る跡のことです。どこかに就職することがキャリアなのではなく、働きながら積み重ねていくものすべてがキャリアなのだ、と。そのうえで、大事にしたい価値観を書き出す個人ワークを10分ほど入れます。
第2部は、働くときの基礎知識。 求人票の見方、労働契約と就業規則、労働時間と休憩、年次有給休暇、給与明細の見方、辞めるときのこと。いちばん時間を割く部分です。
第3部は、保険とお金。 社会保険の四本柱、高額療養費や傷病手当金といった「困ったときの制度」、育児・介護休業、クレジットカードの注意点、NISAや教育訓練給付。
自己理解から始めて、契約、そしてお金。入職してから順番に出会う順に並べたつもりです。
いちばん時間をかけるのは給与明細
この90分の核をひとつ挙げるなら、給与明細の見方です。8分を取っています。90分の講義で一項目に8分は、かなり厚いほうです。
理由は単純で、ここでつまずく新人が本当に多いからです。求人票に書かれていた月給の額と、最初に振り込まれた額が違う。「話が違う」と感じて、そこから職場への不信が始まってしまう。実際には話は違っておらず、健康保険料と厚生年金保険料と雇用保険料と所得税が引かれているだけなのですが、説明されないまま初任給を受け取ると、人は裏切られたと感じるのです。
もうひとつ、必ず伝えるようにしているのが、1年目は住民税が引かれないという話です。住民税は前年の所得にかかるので、社会人1年目にはかからない。ところが2年目の6月から、突然引かれ始めます。手取りが減る。何も聞いていなければ、「減給された」と思っても無理はありません。
こんなことは、知ってさえいれば何でもない話です。知らないまま迎えるから、動揺する。知識がその人を守るという言い方を私はよくしますが、給与明細ほど分かりやすい例はないと思っています。
「一人で抱え込まない」を持ち帰ってほしい
第3部で困ったときの制度を扱うのにも、理由があります。
病気やケガで長く休むことになったとき、傷病手当金という仕組みがある。医療費が高額になったとき、高額療養費で上限が決まっている。仕事が原因のケガなら労災がある。育児休業は、就業規則に書かれていなくても法律上の権利として取得できる。
これらを全部覚えて帰ってほしいとは思っていません。90分聞いた内容の大半は、正直なところ忘れます。それでいいのです。私が本当に持ち帰ってほしいのは、「そういう制度がどうやらあるらしい」という感覚のほうです。
困ったときに、「調べれば何かあるかもしれない」と思えるかどうか。そこで一度立ち止まれるかどうか。これは、制度の名前を暗記しているかどうかより、はるかに大きな差になります。
介護の現場に出れば、しんどい時期は必ず来ます。そのときに、誰にも言わずに辞めてしまう人を、私は何人も見送ってきました。制度を知らなかったから、というだけが理由ではないでしょう。それでも、相談先があると知っていることが、ぎりぎりのところで踏みとどまる力になることはあります。だから最後の5分は、必ず相談窓口の話で締めます。
教える側の下心も、正直に
こうやって書いてくると、ずいぶん学生思いのようですが、教える側には下心もあります。
私は事業者でもあります。人が採れないと言われ続けている業界の、採る側の人間です。その立場から見ると、労働条件を確認する目を持った学生が就職してくることは、実はありがたいことなのです。
条件をきちんと見て、納得して入ってきた人は、簡単には辞めません。逆に、よく分からないまま入って、あとから「こんなはずでは」となった人は、こちらがどれだけ大事にしても、最初のボタンの掛け違いが最後まで残ります。
だから求人票の読み方を教えるのは、学生のためであると同時に、業界全体のためでもあると思っています。条件を隠して人を集める事業所が淘汰されていくなら、それは介護業界にとっていいことです。
90分では足りないけれど
正直に言えば、90分ではまるで足りません。削った内容のほうが多いくらいです。ライフラインチャートも、賞与明細の見方も、確定申告の話も、今年は落としました。
それでも、90分でひとつでも刺されば十分だと思うようにしています。全部を伝えようとして薄まるより、「給与明細は見なさい」と「困ったら相談しなさい」の二つが残るほうが、この学生たちの数年後には効くはずです。
授業のあとに質問に来る学生が、毎年何人かいます。あれがいちばん楽しみです。教室で手を挙げられなかったことを、廊下でぽつりと聞いてくる。そういう学生ほど、よく考えているものです。
今日も、誰か来てくれるといいのですが。
木下浩志(NPO法人ちとせの介護医療連携の会 理事長/株式会社MCL 取締役/北海道介護福祉学校 非常勤講師/キャリアコンサルタント)


コメントを残す