介護業界の媒体には毎週のように「介護報酬の適正化」という言葉が並びます。先日もJoint編集部の記事で、財務省が新類型「登録施設介護支援」(住宅型有料老人ホーム専門のケアマネジメント類型)について報酬の適正化を強く要請している、という記事を読みました。
同一建物減算がありながら、収支差率は6.9%と居宅介護支援全体(6.1%)より高い。労働投入時間が少ない構造であり、報酬は適正化すべき。
参照:Joint「住宅型有老ケアマネ、財務省が報酬適正化を要請」
論理としては筋が通って見えます。しかし同じ業界で「介護職員の賃金が他産業より7万円以上低い」「人材確保ができず事業所が閉鎖している」というニュースも、ほぼ毎週のように流れてきます。
「儲かっている」のなら、なぜ「賃金が上がらない」のか。
経営者の側から見ると、ここには見過ごされがちな構造的な理由がいくつもあります。今日はその点を整理してみます。
1. 「収支差率の平均値」が、業界の実態を覆い隠している
まず最初に押さえておきたいのは、報道で出てくる収支差率の数字は、サービス類型ごとの「平均」だということです。
厚生労働省の介護事業経営実態調査では、サービスごとに何百〜何千の事業所のデータを平均して「収支差率○%」と公表しています。しかし実際には、
- 黒字と赤字の事業所が混在している
- 都市部の大規模と山間部・地方の小規模では収支構造が大きく違う
- 株式会社中心の類型と社会福祉法人中心の類型で運営前提も異なる
「平均6.9%」だけを見て「業界全体が儲かっている」と読むのは危ういのです。中央値はもっと低く、赤字事業所も少数ではありません。平均だけを根拠に一律で報酬を下げれば、地域の高齢者を支えている小規模事業所が真っ先に倒れます。
2. 公定価格 × 3年改定リスクが、賃金を「保守的」にさせる
介護報酬は、3年に1度、国が一律に改定する公定価格です。
普通の事業なら、コストが上がれば値上げができますが、介護事業者にはその選択肢がありません。
ここで重要なのが、賃金は一度上げると下げられないということです。
- 来年度の収支が良くても、次の3年でマイナス改定が来れば収入は下がる
- しかし職員の基本給を下げるのは、労働契約上も人材定着上も現実的ではない
- だから「今年が黒字だから来年から大幅昇給」という判断は、経営者として簡単にはできない
民間企業の感覚で「黒字なら賃上げ」と言われがちですが、収入の上限が国に握られている業界では、賃金水準は今年の収支ではなく3年・6年・9年先まで見て決めるしかないのです。
3. 「収支差」には、これから必要な投資が含まれていない
収支差率の数字を見ると「黒字分は職員に回せばいい」と思われがちですが、その黒字は、実際にはこれから必要になる投資の原資でもあります。
- 建物・設備の老朽化対応(30年単位での建替え)
- ICT・介護ロボット・センサー機器の更新
- 外国人材の住環境整備と日本語教育
- 研修・キャリアパス整備、資格取得支援
- 災害対策・BCP・感染症対応
これらは数年〜十数年に一度、まとまって出ていきます。今年の黒字をすべて賃金に回すと、5年後に建替え資金がない、10年後にシステム更新ができない事態になります。収支差率の実態は、将来投資の原資です。
4. 処遇改善加算は「自由に使える賃上げ原資」ではない
「処遇改善加算が拡充されているのだから、賃金は上がっているはず」とよく言われます。たしかに全国平均の月給は、加算で着実に上がっています。
しかし現場の体感では、特に中堅・主任クラスの賃金が思ったほど上がらないのはなぜか。これは加算制度そのものに理由があります。
- 対象職種・配分方法・賃金規程改定・実績報告が、制度ごとに細かく決まっている
- 法人の裁量で「ここに厚く配分」とは自由にできない
- 加算が打ち切られれば賃金は維持できない(基本報酬ではないため)
- 加算分は本俸ではなく手当で支給されがちで、退職金・賞与・年金に反映されにくい
賃金を生涯収入で見たとき、加算による上乗せと、基本報酬の底上げによる上乗せは、まったく意味が違います。
5. 「事業所の収支」と「法人全体の収支」は別物
介護事業経営実態調査は、事業所単位で収支を集計します。
しかし実際の経営は、法人単位で動いています。
- 本部経費(経理・人事・労務・採用・広報・総務)
- 複数事業を展開する際の内部補填(黒字事業が赤字事業を支える)
- 退職給付引当、退職共済の事業主負担
- 法人としての社会的活動・地域貢献
これらは事業所単位の収支には十分には反映されません。
事業所収支差率が6%台の事業所をいくつ持っていても、本部経費を引いたあとの法人純利益はかなり薄いケースが、特に中小法人では一般的です。財務省の議論で見えているのは「事業所単位の数字」であって、「法人を持続的に経営するための数字」ではない、という点はぜひ押さえておきたいところです。
6. 高収支差率のサービスは、構造的に「労働投入が少ない」
財務省が「適正化を」と言っている住宅型有料老人ホーム内の登録ケアマネは、移動時間がほぼゼロで、同一建物の利用者を集中的に担当できる、という特殊な構造があります。これが収支差率を押し上げています。
一方、訪問介護・小規模グループホーム・地方の小規模デイサービスのように労働集約的にならざるを得ないサービスは、構造的に高い収支差率を出せません。平均値だけを見て「業界全体が儲かっている」と判断するのは、片方の特殊例で全体を語ることになります。
財務省の指摘は、特定類型に限ればもっともな面もあります。問題は、その議論が「介護報酬全体の引き下げ」の文脈に持ち出されたとき、地方や小規模事業者を直撃する着地になりがちな点です。
経営者として、政策に求めたいこと
構造的に高収支差率になっている類型に手を入れること自体には、私も賛成です。そのうえで、政策に求めたいのは次の3点です。
- 平均値ではなく分布で見る ― 中央値・地域別・規模別の収支差率を併せて議論する
- 加算ではなく基本報酬の底上げを ― 本俸・退職金・年金に反映される賃金構造に近づける
- 適正化は「効率化された類型」に限定する ― 一律削減ではなく、構造的に労働投入が少ない類型に絞る
この3つができれば、「儲かっているのに賃金が上がらない」という違和感は、少しずつ解けていくはずです。
議論の場に「もう片方の数字」を出していく
ここまでの6つの理由は、介護経営の世界では特に新しい話ではありません。それでも財政制度等審議会の建議や、それを引用する報道では、ほぼ例外なく「事業所収支差率の平均値」だけが根拠として並びます。中央値・分布・法人本部経費・将来投資引当といった「もう半分の数字」は、公的議論の場にほとんど出てきません。
これは誰かが意図的に隠しているというより、厚労省の調査が事業所単位でしか公表されていないため、議論できるデータが構造的に片側に偏る、制度設計の問題です。だからこそ、この「もう片方の数字」を、現場側・経営者側から声に出して議論の場に乗せていく必要があります。
終わりに
「収支差率6.9%」も「介護職員の賃金が他産業より7万円低い」も、どちらも事実です。矛盾して見えるのは、その数字を生み出している制度の構造が見えていないからだと感じています。
現場の職員に「うちは黒字なのになぜ昇給が薄いのか」と問われたとき、その構造を自分の言葉で説明できることが、経営者には欠かせません。同時に、構造を変えていく声を業界団体・行政・地域連携の場で上げ続けることも、経営者の仕事です。
平均値だけを根拠にした議論に流されず、分布と構造で語れる経営者でありたいと、改めて思います。
木下 浩志
NPO法人ちとせの介護医療連携の会 理事長
株式会社MCL 取締役
北海道介護福祉学校 非常勤講師


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